これは愛なの? [サボ子さん]
↑一寸前のサボ子さん。
わたしはこのとき、生えた芽をそのまま伸ばすことにした。
せっかく伸びてゐる芽を摘むことは、エゴではないかと考えたのだ。
すらりと上のほうに伸びてくれれば、見栄えはよい。
サボ子さんはもともと、居間におく観葉植物として購入したものである。
見てくれは大事だ。
しかし、『観葉植物』とはなんと人間勝手な命名だろうか。
サボ子さんは人間に観られるために生まれてきたのではないはずである。
おかしな位置から芽が出てゐる、と感じるのはわたしの勝手であって、
サボ子さんにとっては極めて自然ななりゆきなのだ。
わたしは決心した。
このまま伸びたいように伸ばしてやろう、わたしはそれをただ見守るのだ。
そして、芽を摘み取りたい衝動をぐっと抑え、サボ子さんのやりたいようにさせてきた。
しかし、それにはこのような決意らしいものだけではなく、
「このまま伸びたらどうなるのか、見てみたい。」
と云う好奇心と、ふざけた気持ちが作用してゐたのも否めない。
しかし、サボ子さん、あなたはこれでよかったのですか?
サボ子さんに問うてみても、答えがあるはずはなく、もちろんそのようなことは問うまでにわかりきってゐるので、
わたしは自問自答する。
これで、よかったのだろうか?
いや、よくなかったかもしれない。
失敗したかもしれない。
もはや、サボ子さんはお洒落な観葉植物ではない。ヘンテコな姿がおもしろ話のタネにされてゐる。
以前は客から「かっこいいね」などと褒められてゐたが、今や誰からも、「なにこれ?」と吃驚される。
無神経な客にいたっては、見るなり大笑いで苦しげにひーひー云いながらなおも笑いが止まらず、「お水を一杯いただけませんか」などと言うので、忌々しい。
そんなに可笑しければいつまでも笑っていればいいと思うが、笑いすぎてひきつけでもおこされたらたまらないので、しかたなく水をやらねばならない。
笑いものになってもお構いなしに、すくすくとおかしな格好に伸びていくサボ子さんを、もはや愛さないかと云うと、それが不思議である。
格好良いインテリア植物であった頃よりむしろ、愛してゐる。
それどころか、「もっとありえない場所から芽をだしてくれないかしら」、と思ったりもしてゐる。
これが愛情によるものなのか、ただふざけた気持ちなのか、
サボ子さんに「これは愛なの?」などと問うても答えはないので、
わたしは自問自答するのである。
これは、愛だろうか?
いや、愛とおふざけが半分半分だろうと。
(おしまい)